思い切り頭を横殴りされたように頭の中は真っ白。
『姉さんの唇、すっげー柔らかかった』
ルキアーノの言葉がジノの頭の中を縦横無尽にぐるぐると駆け回る。
何であんなことをルキアーノが言うんだろう。嫌がらせ?ルキアーノならそれもあり得る。
けど、本当だとしたら…悔しすぎる。
スザクは私のなのに。私だけのスザクなのに。
いつも誰かに横から攫われてしまうんだ。カレンの時も…あの時だって。
そこまで考えて、ふ、と思考が止まる。



あの時って…いつだ?



「ルキアーノ、今日は早退するから、担任に言っといてくれ」
教室に入って鞄に乱暴に教科書やノートを詰め込む。
ノートの端がよれて皺になってしまっていたが、そんなことを気にする余裕も無く。
ルキアーノも察したのだろう、無愛想に『了解』とだけ返してきた。
帰る支度をした鞄を肩に担ぐようにして持つと教室を後にする。
途中、サボりとも思える行動に―現実にサボりなんだが―呼び止める先生もいたが無視して校門をくぐった。
先程から警戒音が鳴り響いている気がして仕方が無い。
何とも言えない感じがするのだが胸が騒ぐような感じがするのだ。
早足で家へと帰ると家中のアルバムをひっくり返した。
何ら変なトコロは無いように見えるアルバムを一冊一冊記憶を辿りながら捲る。
アルバムの中の自分が5歳へ差し掛かる頃、アルバムから空白が増えた。
一瞬ただのレイアウトとも思えるそれ。
けれど、ある一点を境に、またぴっちりと敷き詰められていることで、後に写真が抜き取られたことを物語っている。
「…なんだろう、一体…」
不思議に思いながらその白い空間を見ていると、気付いてとサインを送られている気がしてならない。
ここに何があったのだろう、そう考えながらぼうっとしているうちに眠りの世界へと落ちていった。



小さな頃のルキアーノとジノがいた。
少し眺めの髪をぐいぐいとひっぱりながら女みたいだとからかうルキアーノ。
これは少し記憶にある。
幼い頃の自分はどちらかというと大人しくて、良く女々しい、もやしだと苛められていた。
そして、いつも悔しくて泣きそうになって。
そんなジノをいつも助けてくれたのは…
『ルキ!またジノを苛めてるのか!?駄目だろう!』
泣きついてきたジノを後ろに庇って栗色の髪の女の子がルキアーノを叱っている。
『いつもジノばっか庇うんだからなー』
やってられないぜ、と舌を出すルキアーノは今と少しも変わらない。
『ジノも男の子なんだから言い返さないとだめだろ?』
めっ、と人差し指を揺らす幼い少女。
頬をぷっくりと膨らませてジノを叱って、けど楽しそうに笑う彼女は万華鏡のように表情を変える。
叱られたジノは少し罰が悪そうにしながら顔を上げて、こくりと小さく頷いた。
ごめんと小さな声で謝ると、少女は満足げに満面の笑顔を浮かべた。
そして、ジノより少しだけ大きな手をジノとルキアーノに差し出して。
『行くよ!今日は皆でご飯食べるんだから!』
『うん!――!』



「スザク!!」



少女の手を掴もうと伸ばした手は空を掻いた。
「…夢…?」
むなしく掴む物の無かった手を軽く握る。
少女の手は掴めなかったけれど、昔の記憶を取り戻した。
スザクは、小さな頃近所に住んでいた”お姉ちゃん”だ。
いつも情けない自分を守ってくれて、女だとは思えないほどやんちゃで元気で、けど優しいお姉ちゃん。
大好きで大好きで、いつも後ろをついて回っていた。
彼女もそんなジノをうっとおしがることもせず面倒を見てくれていた。
一度思い出してしまうと堰を切ったように次々と思い出があふれ出す。
でも何故忘れていたのだろう。
そんなに大好きなお姉ちゃんのこと。
ルキアーノと遊んだことはよく覚えていたのに。
不思議に思いながら再びアルバムに目を落とした。
よく見ると、空白になっているところにかろうじて残る少ない写真には、水滴を落としたようなシミが残っていた。
「…なんだ…?水…?涙…か…?」
そっとシミに指を這わせると少しずつ思い出してきて、ジノは眉を寄せた。
「…そうだった…」
いきなり引っ越すことになったと言いに来たスザクに腹を立てて『大嫌いだ』と彼女を散々攻め立てて。
彼女はただ黙ってそれを聞いていて寂しそうに帰って行った。
次の日、やっぱり仲直りしたくなって彼女の家に行ったけれど、そこには彼女の家もなくなっていた。
「確かそれで哀しくて写真を全部破り捨てたんだ」
思い出すと当時の哀しい気持ちも全て蘇ってくる。
今なら分かる。
当時の彼女はまだ幼くて、大人の言うことに逆らうことは出来ない。
引っ越すことになっても、スザクだけ残ったりはできないのだ。
けれど、当時の幼いジノにはそんなこと分からなくて、スザクに見捨てられたと勝手に勘違いしていた。
「それで忘れようとしたのか。馬鹿だなぁ、当時の私!」
思い出したら居ても立ってもいられなくて携帯を手に取りスザクに電話をかけた。



「思い出したんだ!スザクのこと!」



意気揚々と告げたけれど、スザクの反応は酷く冷たいものだった。
もっと喜んでくれると思った。懐かしいね、と笑ってくれると思った。
色々楽しい話をして、大嫌いなんて言ってごめんと仲直りして、そう考えていたのに。
『そう。それがどうかした?』
「え…それがって…スザクのことを思い出したんだ」
『うん、それは今聞いた。だから何?』
どうでもいいことのように言う彼女に愕然とする。
どうしてそんなに冷たいんだ、と。あんなに優しかったのに、と。
何だか昔の泣き虫がぶりかえしてきそうだ、と目尻を押さえると、ジノは電話を握り締めた。
『…ジノ?用はそれだけ?』
なら切ってもいいかな、なんて呟くスザクの声を聞いて視線を伏せた。
何も言えずに俯いていると受話器越しにスザクを呼ぶ男性の声が聞こえて、スザクはごめんね、と電話を切った。
ツーツー、と虚しく音が鳴る電話の電源を切って壁に投げつけると、ジノはベッドに横になった。
トゥルルルル、と受信音が鳴りスザクかと慌てて体を起こして電話を取る。
聞きなれた女生徒の声が聞こえた瞬間、電話を切った。
今はスザクと話がしたい。後ろにいた男は誰なんだよ。
ルルーシュ先輩?ロロ?それとも私の知らない誰か?
「…スザクっ!!」
スザクの大切さに気付くのは少し遅すぎた気がした。



一方的に切ってしまった電話を丁寧に充電器に刺して溜息をつく。
いきなり電話なんてしてくるから正直驚いて、まだ少しドキドキとする心臓を抑えて俯いた。
思い出したから何だというんだ。大嫌いだったというのをわざわざ伝えるために電話をしてきたのか。
ジノがそんな人間ではないと分かっていてもそんな想像をしてしまうマイナス思考な頭を軽く振る。
そして、大きく深呼吸して息を吐くと、呼ばれていたことを思い出してリビングへと向かった。
「電話してたんでしょ?相手はヴァインベルグの四男かなぁ?」
ふかふかのソファに身を沈ませてニマリと笑う養父にスザクは苦笑を向ける。
「すごいですね、正解です。ロイドさん」
「あはぁ。当たり前デショ?スザク君がそんな顔するの、アレ絡みしかないもーん」
笑いながら言うロイドの話に、自分はどんな顔をしているのだろうと頬に手をやる。
視線を感じてロイドの方を見ると、彼はにまにまと相変わらずの人を喰ったような笑みを浮かべていた。
「どんな顔してるか、教えてあげようか。恋情と恐怖心と嫉妬心と…他にも色々入り混じったような顔してるよ」
ぐいっとスザクの腕を引くと顔を近づけてスザクの額を人差し指でトン、とつつく。
スザクはとっさに目を閉じたが、訪れた小さな衝撃にうっすらと目を開けた。
目の前にはロイドの顔がどアップで、思わず後ずさる。
「…眉間にも皺ー。でさ、君、目良いんだから家の中で伊達眼鏡は無いんじゃないの?」
離れ際、伊達眼鏡を取り上げられて、スザクは困ったように眉尻を下げた。
この人との付き合いももう10年にもなるが、一向に分からないな。
思わず溜息をつきそうになると、ロイドの悲鳴が上がった。
「…ロイドさん。スザクちゃんを苛めたら許しませんって言いましたよね?」
どうやら悲鳴はロイドがセシルに殴られた音だったようだ。
ロイドの白い頬には見事なほど赤い痕がついていた。
こんな奇妙な力関係でよくこんなに長い間連れ添えるなといつも不思議に思う。
だが、こうだからこの二人はいいのかもしれない、と最近では思うようになった。
「スザクちゃん、今日のご飯は和食にしようと思うんだけど、いいかしら?今日はゆっくりしていくわよね?」
「あ…いえ、私はそろそろお暇します」
「駄目よ」
にっこり、と笑うセシルに一瞬何が駄目なのか思考が追いつかなくて。
思わずぽかんとしているとセシルが微笑みながら優しくスザクの髪を撫でた。
意味が分からず助けを求めるようにロイドに視線をやると、彼は痛そうな頬を摩りながら視線を反らした。
「今のスザク君を一人にできるほどオトーサンもオカーサンも鈍感じゃないヨー、ってコト」
ふざけているような口調の中にも暖かさを感じる。
セシルがふざけないで下さい、なんて握りこぶしを作っていたけれど、そんないつもの風景がスザクの心を和ませる。
「ロイドさん、セシルさん…ありがとうございます」
「お礼なんていいのよ。スザクちゃんは私たちの家族だもの。守るのは当たり前だわ」
「そうそう。それにヴァインベルグの四男はどうも気に入らないし」
お見合い勧めたくせに…と恨めしげに見ると、もう興味は移ったと言わんばかりにロイドは姿を消していた。
相変わらずマイペースだなぁ、と呆れながらセシルと笑い合う。
しょうがないわね、ロイドさんは…なんて言葉を交わしながら。



「ねぇ、スザクちゃん。ロイドさんも私も。本当にスザクちゃんを娘みたいに思ってるの」
慈愛に満ちた優しい声がスザクの頑なな心を溶かすように包みこむ。
「ここは貴方のお家だから。いつでも帰ってきてね?」
でないと私とロイドさんだけじゃ寂しいの、と付け加えるそれは、スザクが帰って来る『理由』を作る。
そういえば最初にこの家に来た時もそうだった。
彼女は今と何ら変わらない優しい笑顔で『広い家に二人だけでは寂しいの』とスザクを撫でた。
幼心に『居てあげなきゃ』と思ってセシルの傍を離れなかったのを覚えている。
帰る支度をして、スザクは見送ってくれたセシルを振り返った。
「セシルさん…行ってきます」
「はい。行ってらっしゃい」
セシルの行ってらっしゃいという言葉がスザクの背中を優しく押す。
大丈夫。帰ってこれる場所があるということが分かっただけで、少し心強い。



スザクを見送った後家に入ると、そこにロイドが佇んでいた。
「…帰ったの?」
「はい」
「さすがオカーサン。スザク君、少しマシな顔になって帰ってったね」
にっこりと笑うロイドにセシルも小さく笑みを返す。
マシな顔になったといっても、彼女の本来の顔とは程遠い。
悔しいけれど、それを引きずり出せるのは良くも悪くもジノだけなのだろう。
本当に悔しいけれど。
「とりあえず、泣いて帰ってくるようなことがあれば一度仕返しに行かないとね」
「あら、怖いことを言うんですね」
白々しく怖いというセシルにロイドはちろりと視線をやる。
「けど、行くことになったら、君も行くでしょ?」
あんなに可愛がっているスザクが泣かされてだまっているようなお優しい女性ではないでしょ、と。
半分確信を持ちながら聞くと彼女はこれでもかと言うほど爽やかに笑ってみせた。
「…当たり前でしょう?」